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〈摩耶山城について〉

 1333年に赤松円心則村が鎌倉幕府打倒のため挙兵し、京都の六波羅探題を攻める際に、六波羅軍との決戦の場として摩耶山麓を選びました。『太平記』で は"摩耶合戦"と記されています。赤松円心は平野部での決戦を避けて矢合戦主体の山岳戦に持ち込み、鎌倉幕府軍を敗走させました。この時に摩耶山城が造ら れたと考えられます。よって、楠木正成の「千早・赤坂城」、陸奥の朝廷勢力の拠点「霊山城」、赤松氏の本拠地、上郡の「白旗城」等と並び、中世城砦の中で も最も古いタイプに属します。ただし、この時の「城」は小規模な削平地が点々と連なるもので、山に籠もって戦うこと自体が"城を構える"ことだったようで す。

 現存する摩耶山城の遺構は、戦国期の改修を受けたものと思われます。これといって特徴的なところは無く、尾根筋を削り平らにした削平地"曲輪"を 連ねる砦です。しかし、南北朝時代以降の摩耶山城の動向については確かな記録がなく、16世紀中期の「摂津の大乱」の際に、軍事拠点として使用されたので はないか、と考えられています。

 戦国時代の摩耶山城は、赤松氏の城であるよりも、三好氏や織田軍の陣城(他の城を攻める際の臨時の城)であった可能性があります。

 摩耶山中腹の、摩耶ケーブル山上駅周辺が城跡です。ケーブルの駅が作られた際に完全に破壊されたと考えられていましたが、それより西側の尾根に城 砦遺構が残存します。また、麓の五鬼城山展望公園に下りていく尾根筋にも点々と「曲輪」が存在し、摩耶山城と連携して戦う砦と考えられ、「上野塞」と名付 けられています。摩耶山城は、単独の山城ではなく、小規模な砦が互いに連携して機能する「摩耶山城砦群」と捉えるべきです。