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〈主砲のスペアがない?〉

 前回に引き続き「大和」のお話です。大和級が搭載していた主砲は口径が46cmあり、船に積まれた大砲としては世界最大なのですが、この大砲をどこで 造っていたかご存知ですか?当時この巨砲を製造する能力があったのは呉海軍工廠だけでした。大和級1番艦の「大和」は呉で建造したため問題ないのですが、 2番艦の「武蔵」は民間の三菱重工長崎造船所での建造であるため、主砲は呉で造ってそれを船で長崎まで運ばなければなりませんでした。そのため、この大和 級の主砲を運ぶためだけに「樫野(かしの)」という輸送艦が建造されたのです。大和級はアメリカと戦う際の最強の切り札としての存在であるため、一般国民 にも知らされず秘密の存在だったのですが、その秘密保持のための努力は異常とも言えるものでした。詳細はここでは述べませんが、「樫野」は最高機密である 大和級の主砲を扱うということで、船全体を撮影した写真は1枚も残っていません。

 大和級は全部で4隻建造される計画だったのですが、実際に戦艦として完成したのは大和と武蔵の2隻で、3番艦の信濃はミッドウェー海戦後に空母に 改造され大戦末期に完成しました。大和級は3連装の主砲が3基搭載されているため、1隻につき9門、大和と武蔵の2隻で18門の46cm砲が存在していた わけですが、開戦前に日本海軍が想定していたような戦艦同士の激しい撃ち合いは1回しか起こらず、この世界最大最強(と言われる)の艦砲がついにその威力 を発揮することはありませんでした。

 大砲(砲身)の中は、弾が回転をかけられるように旋条(ライフル)という溝が付けられています。弾体はこの旋条にがっちり組み合った状態で発射さ れるため、大砲は撃つたびに磨耗していきます。弾を飛ばす距離によって発射時の火薬の量は異なるため、一概には言えませんが、この46cm砲の場合は約 200発の発射で交換の時期がくるらしいのです。しかし結局そこまで撃つことはなく、主砲が交換されることはありませんでした。沈没する時まで建造当初に 搭載した主砲のままだったわけです。

 では、もしも大和級戦艦が主砲を交換しなければならなくなった場合どうするのでしょうか。歴史に「もしも~」は禁物と言われますが、これは運用思 想に関ってくることです。航空機の発達で戦艦が砲戦で活躍する場がなくなってしまったのは結果であり、大和級が大砲(砲身)を交換せずに済んだのは“たま たま”です。大和級が本格的に戦いに参加したのは大戦も後半に入った昭和19年(1944年)になってからで、それまでは日本と南方の間を往復するか、安 全な泊地でプカプカ浮いているだけでしたが、作戦における運用の仕方によってはアメリカの艦隊と相対することもあったわけです。ではもし交換が必要な事態 が生じた場合、どうなっていたのでしょうか。

 まず戦艦としては未完成に終わった信濃のために用意されていた砲身が予備として使えますが、それが全部そろっても9本しかありません。不足分は新 たに造らなければなりませんが、46cm砲を製造できるのは呉だけです。その46cm砲は、プラモデルのキットを造るのとはわけが違い、「砲」としての強 度を持たせるには、鋼材の配合成分や、焼きを入れる工程は非常に複雑になります。1門造るだけでかなりの時間がかかるわけです。この場合、機関部の交換ほ どではないにしても、2隻同時の修理というわけにはいかず、一方が修理を受けている間は、他方はずっと修理待ち、ということになるわけです。 しかし、これらの問題点は、この前の機関部交換の話と同じで海軍関係者も承知しており、大和級戦艦は初めから主砲を交換することは考えていなかった可能性 があるのです。

 日本海軍は、アメリカと戦争をするにあたっては、「漸減作戦」なる計画を持っていました。これは、太平洋を大挙して渡ってくる強大なアメリカ艦隊 を、まず潜水艦で攻撃して少し弱め、次に巡洋艦と駆逐艦による魚雷攻撃でさらに弱め、最後は満を持して出撃した戦艦部隊で討ち果たす、という計画(正確に 言うと“願望”)です。つまり対アメリカ版“日本海海戦”であるわけですが、これを成功させるには、アメリカ艦隊がこちらの希望通りやって来てくれること が大前提ですね。しかし日本海軍はアメリカ相手に長期戦をすることは絶対に不可能、と分かっていた(分かっていたはずなのですが…)ので、これ以外に戦い ようがなかったというのが現実です。そして、その一回の戦い、文字通り“決戦”に勝てば講和に持ち込んで戦争終了、負ければそれでおしまい、ということで 勝っても負けても戦争は終わるわけです。

 軍艦といえども「武器」の一種であり、大和級はその中でも“伝家の宝刀”“決戦兵器”です。上記の考え方でいけば、大和級が勝とうが負けようが戦 争は終わるわけで、たった1回の決戦において「武器」として最大限の能力を発揮できればよく、その後のことは気にする必要がない、と海軍では考えていたか もしれないのです。ある意味非常に「合理的」ではあります。

 よく「このタイプの艦は○○用に造られたと考えられる」とありますが、それらは確証を得ているわけではありません。それと同時に、前大戦時の海軍 艦艇に対して、様々な問題点が指摘されることが多いですが、戦前の海軍では現代の我々とは異なる「合理的思考」のもと、艦艇を整備していた可能性があるの です。

 (参考文献:学研 歴史群像シリーズ『超超弩級艦「大和」建造』 )