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〈せりあ丸〉

 「せりあ丸」を知っている人はほとんどいないと思います。この船は太平洋戦争中に日本で建造された2TL型という「戦時標準油槽船(タンカー)」です。 現在このページには写真を掲載できないのが残念ですが、無駄をそぎ落とした、ある種異様な雰囲気の船です。直線だけで構成され、いかにも急造といった冴え ない船容ですが、太平洋戦争中の日本商船の中でも5本の指に入るぐらいの幸運に恵まれた船なのです。
船舶は戦時に大量に必要であるため、通常と同じように丁寧に造っていては間に合いません。そこで規格を統一し、必要な部分だけを残して工事の簡略化を行っ て大量に建造した船を「戦時標準船」と呼びますが、「せりあ丸」はその戦時標準船の中でも粗悪船として悪名高い「第二次戦時標準船(戦標船)」に属しま す。

 戦前に計画されていた戦時標準船を「第一次戦時標準船」と言いますが、この第一次の船は多少工事が簡略化されただけで、建造に時間がかかることは 変わりなく、南方の海で沈んでいく大量の船舶を補うには全く不足していました。そこで昭和17年(1942年)11月以後、さらに簡略化した船を設計する ことになったのですが、これが「第二次戦時標準船」です。しかし実際に第二次標準船が実際に建造され始めたのは昭和18年の11月以降で、ようやく数が揃 い始めた昭和19年には、もはやどうしようもない状況になっていたのです。戦標船は、戦争後半になるに従って、物資不足・熟練工の徴兵・未熟練工の導入が 原因で船としての質が急速に落ちていきます。第二次標準船は早く建造して数を揃え、とにかく1年ぐらいもてばよい、浮かんで動くことができればよい、とい う究極の考えのもとで造られました。その最たるものが船底の二重底の廃止で、一度底に穴があけばそれでおしまいです。水密試験も省略されたため至る所から 水漏れが生じ、完成後も乗組員による修理が絶えませんでした。搭載されるエンジンも性能が低いもので、低速・低質な戦標船はアメリカ軍の攻撃に対して非常 に脆く、南方からの資源を積んで日本に向かっても、たどりつく前に撃沈される数が増え、そのために物資が不足し、建造される船はますます粗悪になっていく という悪循環に陥っていたのです。ただし電気溶接や船体をいくつかの区画ごとに造って後で組み合わせるブロック工法の導入によって建造期間は従来の平均 16ヶ月から4ヶ月程度に短縮され、戦後の造船技術向上には役立つことになります。

 「せりあ丸」はそのような粗悪船の代表である第二次戦時標準船のタンカー型(2TL型:総トン数1万トン、5000馬力蒸気タービン、最高速力 15ノット)として昭和19年(1944年)6月に三菱長崎造船所で完成しました。完成後の試験もそこそこにすぐに南方からの石油輸送任務についたのです が、この頃には制海権、制空権共にアメリカ軍に奪われ、生きて日本にたどり着くことはほとんど奇跡といってよい状態にありました。そのような中で「せりあ 丸」は昭和19年7月と9月の2回の石油輸送作戦に参加していずれも無事帰還しています。非常に“ツイている”船です。

 昭和19年12月に再びシンガポールに向かいましたが、あまりに危険で帰ってくることができず、そのまま現地で待機することになりました。この頃 日本国内では石油資源の枯渇が深刻な状態にあったのですが、昭和20年(1945年)1月の時点で日本と南方輸送路は事実上断たれており、石油を積んだタ ンカーが日本に向かうことは「自殺行為」以外の何ものでもないという末期的状況にあったのです。

 そのような中、日本軍部は石油を日本に持ち帰る決死的輸送作戦である「南号作戦」を企画し、昭和20年1月に「せりあ丸」は「神機突破輸送隊」と いうとんでもない名前を頂いて石油輸送任務にあたることになったのです。(「輸送隊」といっても「せりあ丸」と護衛の海防艦1隻しかいないのですが。)
当時の日本軍の暗号はアメリカ軍に筒抜けでした。そして終戦まで一度も暗号のコードは変更されなかったのです。その上日本の輸送船団は、何度失敗しても、 いつも同じ航路で航海していため、その度にアメリカ軍の攻撃にあい全滅することを繰り返していました。これは船団の指揮を商船の船長達にまかせず、あくま で海軍が握っていたため、その硬直した体制の下でいたずらに損害を増やしていたものと考えられます。そのため、今まで通り海軍が設定する航路を進んでは絶 対に助からないと考えた「せりあ丸」船長は、出港前の会議で海軍側に
①.船団の指揮は自分が執ること
②.護衛艦を2隻付けること
③.沿岸用の海図を貸与すること
以上の3項目をを要求したのです。沿岸用の海図すら、この当時の海軍は『軍機』としてかたくなに開示していなかったのです。“守ってやっている商船の船長 ごときが畏れ多い帝国海軍に要求を突き付けるとは何事か!!”ということで会議は紛糾したのですが、淡々と理を説く「せりあ丸」船長についに海軍側は折 れ、護衛の海防艦を1隻付けること、一応海防艦の艦長に指揮権はあるが、「せりあ丸」船長が必要と判断した場合は、それに基づいて行動してよいことが認め られたのです。
1月20日にシンガポールを出向した「せりあ丸」と海防艦1隻は、マレー半島沿いに北上し、タイ湾を一気に抜けた後はインドシナ半島の海岸沿いに北上を続 け、トンキン湾の奥に進みそこから海南島と中国大陸を隔てる海南島海峡を抜けて中国大陸の沿岸を進みました。当時の輸送船団の通常航路よりもはるかに徹底 して沿岸を進む航路をとったため、海図に刻々と船位を記入しながらの手探りのような航海でしたが、余りに水深が浅いため敵潜水艦も追跡することができず、 2月7日に門司港沖の六連島(むつれじま)泊地に無事到着しました。この時期に南方から生還することは奇跡であり、軍部からは「武功旗」が贈られたそうで す。

 この航海が無事成功したのは、運が良いというよりも、船長が通常航路とは異なる徹底した沿岸航路をとったことと、「せりあ丸」と護衛する海防艦の 乗組員による必死の努力によります。この航海では護衛に海軍所属の“海防艦”が1隻ついていましたが、「せりあ丸」の船長が事実上の指揮を執っていまし た。実情を把握している(目を向けることができる)商船の船長の適切な指示があったのです。加えて海防艦の艦長は、海軍兵学校出身者ではなく、商船大学出 身者が充てられることが多かったそうで、この場合もそんな事情が関係していたのではないでしょうか。

 無事帰還した「せりあ丸」は、その後は瀬戸内海にありましたが、7月28日に兵庫県相生湾近くの生島付近に避難し停泊していたところをアメリカ艦 載機に攻撃され、炎上し半没状態で終戦を迎えました。しかし戦後昭和23年に浮揚に成功し、徹底的に修理して「まともな船」に造り直した後、中東からの石 油輸送に従事することになり、終戦直後の日本を支えることになったのです。

 幸運の「せりあ丸」は、船体の老朽化のため昭和38年に解体されました。戦時に急造された標準船が、戦後の永きに渡って日本を支えたのです。「大 和」や「長門」など、大型の軍艦が注目されがちですが、これらの大型艦はさほど役に立ったとはいえません。この「せりあ丸」のような商船が、莫大な犠牲を 払いつつ戦時の日本を支えていたのです。「男たちの○○」もいいですが、このような商船をテーマにした映画はできないのでしょうか。

 (参考文献:光人社NF文庫 「戦う民間船」 )