〈長城は続くよ、どこまでも〉
北京北方の八達嶺(はったつれい・パーターレイ)にある万里の長城を見たことはありますか。そう、よく観光案内に載っている、山々にウネウネと連なる石造 りの長城です。断崖絶壁の急斜面を、どこまでも続くかのように果てしなく伸びていますが、あの長城は明代に造られた物なのです。中国大陸における「長城」 の歴史は古く、春秋戦国時代、つまり秦や漢の時代よりも前から長城は造られていました。
万里の長城は、農耕民族が遊牧民族の侵略を防ぐために築いたもので、攻めて来られた時に防御するという印象が強く、壮大ではあるが力の限界を示す ものであるという説明がなされることがよくあります。確かに明代の長城はそのような存在であり、決して誤った考え方ではないのですが、どうもそれだけでは 無いようなのです。特に、はるか2000年以上昔の春秋戦国時代や、秦漢時代の長城の場合なおさらです。
明代の長城と、春秋戦国・秦漢代の長城の位置は、大きく異なることをご存知ですか。またそれらは我々が見慣れた明代のもののような堅固な石造りではなく、もう少し簡単な石塁か、土を突き固めた「版築土塁」が主流です。
春秋戦国時代は、互いに魏・呉・越・楚・晋・斉・秦・趙などの国々が互いに覇を競い合う時代でした。そのため、遊牧民に対する長城の他に互いの国 境線に沿って造られたものが存在します。つまり現在の目から見れば中国国内に、部分部分、途切れ途切れの長城があちこちに存在していたわけです。秦や趙の 場合、直接匈奴などの遊牧民と接しているため、オルドス高原や黄土高原に築かれているのですが、これらがまたとんでもない場所にあるのです。まず趙国の長 城の方は、常識で考えられるラインから250kmも北側、陰山山脈麓の荒涼たる地に二筋の長城が築かれているのです。常識的な防衛ラインの方には、確かに 明代の長城が存在しているのですが、それよりもはるかに北側に存在しているわけです。
趙国の北辺には、長城が築かれた後に雲中・雁門・代の三郡が置かれたという記録が残っているのですが、これらは防衛と生産地拡大の二つの目的を 持って設置された「辺郡」と考えられます。つまりこの長城は、遊牧民が攻めてきてどうしようもないから壁を造ろうという受け身な姿勢ではなく、むしろ趙の 方が積極的に進出しているわけです。ところで、生産地拡大といっても現在のオルドス高原は荒涼とした砂漠地帯ですが、今から2000年以上昔は緑豊かで地 味が肥えた地域だったのです。しかし無理な灌漑や農地開発など人災によって砂漠化してしまったらしいのです。秦の長城も黄土高原の砂漠地帯を延々と伸びて いるのですが、ここもかつては森林地帯で、森の中を長城が走っていたようなのです。ちょっと想像できないですね。自然環境を変える時にはよほど慎重にしな ければいけないということを如実に表しています。また、古代の森林分布図と秦の長城の位置を比較すると、およそ長城の内側の大部分が森林地帯で、外側は森 林が無かったことが読み取れるのだそうです。現在はまだ仮説ですが、『秦は森林地帯を限界まで確保するために長城を築いた』とも考えられるのです。長城 は、遊牧民族に対する漢民族の恐怖が生み出したもの、とは一概には言えなさそうです。
秦による統一の後、各国ごとに整備されていた長城は、整理されて外敵に向けた長城の形になっていきます。それが究極の完成形になったのは漢の時代 です。漢の長城は、従来の予想をはるかに上回る規模で、その全貌はいまだに明らかになっていないのですが、西域への出口として有名な玉門関からロプノール 湖畔の楼欄へ続く断続的な長城跡と、楼欄からさらに西へカシュガル市にまで延びる烽火台の列が確認されているのです。漢代の長城は、「長城」自体は版築・ 石塁型ではありますが、その全容は烽火台と組み合わせた壮大なもので、いずれの時代の長城よりも防衛システムとしての規模が大きく、西域諸国に漢の強大な 力を見せつけていたことでしょう。これらは長城だけで守るというよりも、城塞群と通信連絡網を整備することで緊急事態に迅速に対処することに主眼が置かれ ていました。しかしさすがに負担は大きく、漢の勢力が弱まると西域の長城群は放棄されてしまいます。
長城は、拠点防衛・烽火による通信・緊急時の対応が高度に組み合わされて有効に対処できるシステムです。明代のものは、見た目は堅牢壮大ですが、どちらかというと構築物自体で守る存在であって、次第に現状に合わなくなり、長城としての役目を終えることになったのです。
(参考文献:講談社現代新書 「万里の長城攻防二千年史」 )