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〈旗振り山をご存知ですか?〉

 江戸時代後期から、明治・大正時代頃まで、大阪堂島の米相場を各地に伝えるのに「旗振り通信」が使われました。見通しの良い櫓や山の上に設けた中継所を次々と連絡して、手旗信号によって伝えていたのです。その通信所が設けられていた山が「旗振り山」です。

 江戸時代の半ばには、大阪には日本全国の米が集められ、その市場は米価の基準となっていました。当時は米価が諸物件の基本となっており、商人たち は、米相場をいち早く知ろうとしていたのです。米相場は、一日に3~4回程度伝えられ、熟練した手旗通信手が通信にあたっていました。中継所の間隔は、地 域によって様々でありますが、望遠鏡を用いれば約24km先まで通信できたそうです。通信にあたっては、望遠鏡を覗く者と手旗を振る者とに役割分担され、 かなりの速さで中継していたそうです。どのくらい速いかというと、1回の手旗送信に要する時間はほぼ1分程度で済み、大阪の堂島から和歌山間が3分、京都 まで4分、大津まで5分、神戸まで7分、桑名まで10分、広島まで40分で伝わったというから驚きですね。電信(電話、電報)の発達によって次第に廃れて いきますが、初めのころの電信はかなり値段が高かったので、大正時代頃まで残っていました。

 旗振り山の名前は、山歩きのガイドブックに載っていることがあるので、山歩きが趣味の人の中には知っている人もいらっしゃるでしょうが、一般には あまり知られておりません。神戸の旗振り信号所は、東灘区の“金鳥山(正確にはその中腹)”、長田区と須磨区の境界に位置する“鷹取山”、須磨区の“旗振 り山”があります。堂島からまず金鳥山に伝えられ、鷹取山または須磨の旗振り山から、明石、三木、淡路・徳島方面へ中継していたようです。

 手旗信号の中継所は見晴らしが良い所に設けられるので、昔の城跡や古代の烽火台の位置と重複する場合が多いです。現在でもTV中継のアンテナや、 反射板が建てられている所があります。かつて旗振り通信が行われていたことは、時間の流れの中で忘れられていきつつありますが、時代が移り変わっても、大 切な役割を果たしている現役の「旗振り山」もあるわけですね。

   (参考文献:「旗振り山」 柴田 昭彦著 ナカニシヤ出版 平成18年出版)