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〈古代の官道について〉

 JR三宮駅の南側を、国道2号線ががほぼ一直線に通っていますが、これが、奈良時代頃に整備された「古代山陽道」とほぼ重なっているのです。おまけに道幅も、現在の2号線に匹敵するぐらいだった可能性があるのです。

 奈良時代頃に都の周辺に直線的な道路が造られていたことは昔から知られており、奈良盆地では、王子の辺りから飛鳥に向けて一直線に伸びる「太子 道」や、南北方向に走る「上ツ道」「下ツ道」などがありますが、全国規模で整備された道路網の詳細が分かってきたのは、ここ最近20年ぐらいのことらしい です。  それらの道路は、単に直線的であるだけでなく、平均して約12kmごとに駅(うまや)が置かれ、山陽道(都-大宰府間)のような主要道路に関しては、幅 が現在の高速道路並であったらしく、建設機械のない当時の人々の苦労がしのばれます。ただし、石畳が敷かれているローマ帝国の街道網とは異なり、土を平ら に突き固めた道路でした。  この道は「官道」と呼ばれているとおり、一般の人々が通るために造ったのではなく、外国の使節、任地へ赴く国司、及び許可証を持った国営の飛脚が使うた めのもので、実用性よりも、中央権力の強大さを印象付ける意味合いが大きかったようです。そのため、中央集権体制が崩れだす平安中期頃(8世紀後半~9世 紀初め)には維持できなくなり、もう少し幅の狭い実用的な道になっていったようです。  しかし、具体的にいつ頃建設されたのか、どれだけの人数が動員されたのか、各地の豪族をどうやって従わせたのか、不明なことはまだまだ多いのです。

 大宰府-都間を結ぶ「山陽道」は、外国の使節が通るということで特に重要視され、駅(うまや)は宿泊施設と迎賓館を兼ねており、かなり豪華だった ようです。神戸近辺では芦屋(JR芦屋駅付近?)、須磨(須磨寺辺り?)、明石(明石城のあたり)、加古川(JR加古川駅付近)に設置されておりました。 このように、古代道路の駅(うまや)と現在の鉄道の駅が重なる例はよく見られます。今も昔も交通で重要なルートは変わっておらず、古代道路と現在の高速道 路や鉄道の路線が重なっている場所がよく見られます。

 明石や姫路の平野部の地図をよーく見て下さい。道が一直線に続いている場所があります。JR魚住駅の近くに、ため池の真ん中を一直線に堤が伸びて いる部分があります。JR加古川駅の近くには「駅ヶ池(うまやがいけ)」という名が付いたため池があります。これらが古代道路の痕跡なのです。都市部では 開発が激しく道そのものは消えていますが、まっすぐ伸びる旧道や町名の境界として残っている場合があります。想像してみてください。今から1000年以上 前に、高速道路ぐらいの幅がある直線道路が平野や山の間を通っている様子を。すごくないですか?

(参考文献:「日本の古代道路を探す」 中村 太一著 平凡社新書)