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〈唐が攻めてくる!〉

  兵庫県揖保郡新宮町に亀山(城山、きやま)という山があります。ここは、かつて応仁の乱以降の戦国時代に、赤松氏が山城を築いていたのですが、それよりも はるか昔、7~8世紀にも城が存在していたのです。これは「古代山城」と呼ばれ、北部九州から瀬戸内・畿内にかけて約30ヶ所見つかっております。この古 代山城には、「日本書紀」「続日本紀」に城名をとどめ、築城・改修・廃城の記録が載っているものと、文献記録が存在せず、築城時期などが不明なものと二種 類ありますが、いずれも7世紀頃に造られた城砦と見られております。なおこの頃の城は、「城」または「柵」と書いて「キ」と読みます。対蝦夷戦の中で東北 地方に建設された数多くの城砦兼役所は「柵」と表記されます。亀山(きやま)は、その当時「キのヤマ」と呼んでいたのが、時を経るにつれてそのまま山の名 前になったと考えられます。 

これらの城は山頂付近や山腹を土塁・石塁で囲む構造になっており、建設にあたっては朝鮮人技術者の指導を受けたと考えられるため「朝鮮式山城」とも呼ばれ ます。戦闘用の施設だけでなく、城域内に避難場所や穀物倉庫を持つ場合もあり、大宰府防衛用の大野城に至っては、全周が8kmぐらいになります。文献記録 に載っていないものは、延々と山腹を廻る切り石のために、かつて聖域を表す境界石と考えられたことがあり「神籠石(こうごいし)」と呼ばれていましたが、 現在では城として認識されています。

「古代山城」は、663年に日本と百済の連合軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで唐に敗れたため、逆に日本が唐と新羅の侵攻に備える必要がでてきたことにより、緊迫した状況の中で建設が進められた、といわれてきましたが、どうもそうとは言い切れないようなのです。

北部九州から瀬戸内沿岸部にかけて存在しているため、北部九州に上陸した唐軍が飛鳥または大津の都(天智天皇が大津に都を置きました)を目指す途上で迎え 撃つような形になっているように見えるのですが、古代山城は実際には沿岸からかなり離れた山に存在し、素通りされれば大して役に立ちません。城の外郭線を 形成する石塁や土塁が、山麓から見た正面側に対しては堅固に造ってあっても、背後になると次第に粗雑になり途中で消えてしまっている場合もあります。つま り、避難所としては機能するでしょうが、本当に戦うことを考えて造ったのか疑問に思われるような城が多く存在します。「未完成なのでは?」と思われている ものもあります。

古代山城は、初めから外敵に備えるつもりで造ったのではなく、城を造ること自体が目的だったようなのです。つまり「支配力の強化」です。その当時、一般の 民衆や豪族たちは国外情勢を知る機会はなく、国外に関する情報は中央政府すなわち朝廷とそれを補佐するごく一部の豪族が握っており、今は危機だからといわ れればそれに従わざるをえません。この頃はちょうど大化の改新後で、天智天皇の指示のもとで戸籍がつくられ、朝廷による全国支配(東北と北海道は入ってい ません)が着々と進められていました。以前に紹介した古代の直線道路網の中で、幅が最も広い道路(高速道路並みの12mの幅)が全国各地に建設されていっ たのもこの時期と見られています。巨大直線道路は人跡まれな場所も関係なくまっすぐ通すのですよ。建設だけでなく、その維持管理を考えると民衆の負担はか なり大きかったと考えられます。当時の朝廷の支配力は我々が考える以上に相当強大だったようです。大がかりな土木工事を通して、地方豪族と民衆に対する支 配力を強化する、それが「古代山城」の真の建設目的だったのです。